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พจนานุกรม

รายละเอียดคำ

李賢 (唐)

次いで睿宗が復位すると、皇太子の地位に復して「章懐」の諡号を贈り、唯一生き残っていた息子である次男李守礼(中国語版)を邠王に封じた(長男李光順は先に誅殺され、三男李守義も病死していた)。 李守礼には多くの子(したがって李賢の孫)があったが、唐の歴史上重要な人物に以下があった。 広武王李承宏(中国語版)

คำที่เกี่ยวข้อง

李唐

(1050頃-1130頃) 中国, 宋代の画家。 字(アザナ)は晞古(キコ)。 細密な山水画を得意とし, 南宋画院体山水画の形成に大きな役割を果たした。 作「山水図」(京都高桐院)

李唐

〔皇帝の姓が李であったことから〕 中国の唐朝のこと。

李賢

李賢(り けん) 李賢 (北周) - 北周の将軍。 李賢 (唐) - 唐の高宗の皇太子で中宗、睿宗の兄。章懐太子と諡された。 李賢 (明) - 明代中期の政治家。 李賢 (豊城侯) このページは人名(人物)の曖昧さ回避のためのページです。同名の人物に関する複数の記事の水先案内のために、同じ人名を持つ

李善 (唐)

がなく、「書簏」(本の入れ物。本を読むだけで身についていない人)というあだ名がついていたとする。また、李善がはじめ『文選』注をつくったとき、事柄の説明のみで文意を説明できていなかったので、子の李邕が文義がわかるように補い、李善の注と李邕の注が

李璘 (唐)

承慶を降伏させる。高適・来瑱・韋陟は軍を安陸に集め、永王の討伐を誓う。 757年、粛宗は宦官の啖廷瑶を派遣して、李成式と謀らせて河北招討判官の李銑と兵を合わせて、永王に向かわせる。永王は対岸に軍を並べる。李成式は判官の裴茂に旗を長大に並べさせたため、永王は恐れるに至る。そのため、季広琛・渾惟明・馮

李弘 (唐)

李 弘(り こう)は、中国・唐の皇太子。父は3代皇帝高宗、母は武照(武則天)。はじめ代王。義宗の廟号と孝敬皇帝の諡号を贈られた。同母弟に李賢(章懐太子)、4代皇帝中宗、5代皇帝睿宗らがいる。 高宗と武照との長男として生まれる。李弘の生年に関しては諸説あるが、同母実弟の李

李斉賢

李 斉賢(イ・ジェヒョン、り せいけん、至元24年12月24日(1288年1月28日) - 至正27年7月29日(1367年8月24日))は、高麗・李氏朝鮮の政治家・儒学者・詩人。もとの名は之公。字は仲思、号は益斎・櫟翁。諡号は文忠。朝鮮における朱子学普及に努めるとともに、元との関係調整に尽くして高麗の存続に尽力した。

李賢 (明)

順帝として重祚すると、左侍郎、次いで吏部尚書に任じられて天順年間の朝廷における実力者となった。しかし奪門の変で功のあった石亨や曹吉祥らは李賢の存在を疎み、英宗に讒言して左遷させている。このため石亨と曹吉祥、英宗の後ろ盾を得た李賢による政争が始まり、天順4年(1460年)に甥の石彪が罪を犯したのを理由

李守賢

黎、入朝太祖于行在所、即命庭植為龍虎衛上将軍・右副元帥・崇義軍節度使、守賢授錦州臨海軍節度観察使、弟守忠為都元帥、守河東。朝廷以全晋為要害之地、人心危疑未定、非守賢鎮撫之不可、乃自錦州遷河東南路兵馬都総管。既至、河東人皆曰『吾等可恃以生矣』」 ^ 『元史』巻150列伝37李守賢伝

李賢坤

李 賢坤(イ・ヒョンゴン、ハングル:이현곤、1980年11月12日 - )は大韓民国出身の元プロ野球選手(内野手)、野球指導者。 高校生だった1998年にドラフトで起亜タイガースから指名されたが、延世大学校進学のため拒否。 4年後の2002年に改めて起亜タイガースへ入団。

李淑賢

清西陵の近くの民間墓地「華龍皇園」の経営者が墓地の知名度を上げるために、李淑賢に溥儀の墓を作ることを提案し、李淑賢はこの案に同意。こうして溥儀の遺骨は北京市八宝山人民墓から同墓地に移された。また、後に溥儀の墓のそばに、皇后婉容(溥儀の最初の妻)と貴人譚玉齢(溥儀の側室。3番目の妻)の墓も造られた。

唐沢民賢

大奥の恋」(1995年) - 菱田屋銀左衛門 赤穂浪士(1979年、ANB / 東映) - 早水藤左衛門 長七郎天下ご免!(ANB / 東映) 第6話「天晴れ! へぼ同心初手柄」(1979年) - 北村 第22話「錆びた十手が輝いた!」(1980年) - 立花修理亮 第35話「おかめが達磨に貰い泣き」(1980年)

李景亮 (唐)

けいりょう)は唐の官吏。李章武(りしょうぶ)の幽婚譚(『太平広記』巻340「李章武」)の作者。 その仕履は不明な点が多く、徳宗の貞元10年(基督教暦795年)12月に制挙の一である詳明政術可以理人科(しょうめいせいじゅつかいりじんか)に擢第した事と、憲宗の元和末年(元和は20年(基督教暦820年)迄)には翰林待詔(かんりんたいしょ

李賢 (北周)

よる北斉平定戦に従軍し、鄴城で戦没した) 李吉(儀同三司) 李崇(字は永隆) 李孝軌(開府儀同大将軍・昇遷県伯) 李詢(上柱国・隴西郡公) 李諲 李綸 李孝忠 李孝礼 李孝依 李孝良 李抱罕 ^ 生年は『周書』の享年からの逆算。墓誌の記述によると、504年生まれとなる。 ^

唐

(1)中国の王朝名。 (ア)李淵(高祖)が隋の恭帝の禅譲をうけて建てた統一王朝(618-907)。 都は長安。 律令制・均田制・租庸調制・府兵制による中央集権体制を確立。 文化が大いに興隆, 当時世界の一大文明国となり, 日本も遣唐使を派遣して文物・制度の導入に努めた。 安史(アンシ)の乱以降衰え, 朱全忠に滅ぼされた。 李唐。 (イ)五代の一。 → 後唐 (ウ)五代十国の一。 → 南唐 (2)転じて, 中国のこと。 また, 外国。 <i>~へ投げ銀(ガネ)</i> 鎖国以前の朱印船貿易時代, 海外へ投資すること。 海難の恐れが多く無謀な投資のたとえにもいう。 「~の大気先は見えぬ事ながら/浮世草子・永代蔵 4」

唐

〔「諸越」の訓読から〕 (1)昔, 日本から中国を呼んだ称。 唐。 唐土。 「勅旨(オオミコト)戴き持ちて~の遠き境に遣はされ/万葉 894」 (2)昔, 中国から伝来した物についてその名称の上に冠して用いた語。

唐

(1)中国や朝鮮。 また, 外国。 「~天竺(テンジク)」 (2)中国や朝鮮の, 中国や朝鮮から伝わった, 舶来のなどの意の複合語を作る。 「~芋」「~織り」「~櫛笥(クシゲ)」

賢

学徳がすぐれかしこい・こと(さま)。 「彼れ美にして且つ~なり/花柳春話(純一郎)」

賢

(形容詞「かしこし」の語幹) ※一※〔おそれ慎む意〕 女性が手紙の末尾に書いて敬意を表す語。 あらかしこ。 あらあらかしこ。 かしく。 〔中古には仮名文の消息で男女共に用いた。 近世頃から女性のみが用いる〕 ※二※ (1)おそれ多いこと。 はばかられること。 → あなかしこ (2)頭がよく知能がすぐれていること。 「われ~に思ひたる人/紫式部日記」 (3)技能がすぐれていること。 「~の御手やと空を仰ぎてながめ給ふ/源氏(葵)」